「2001年宇宙の旅」について その②
そして、ポイントとなるのは、テーマ曲である。
「ツァラトゥストラはかく語りき」である。
つまり、ゾロアスター教である。
キリスト教的な、歴史史観から見ると、実は異端とされており、同時に触れて欲しくないことであるようだ。なぜなら、キリスト教はゾロアスター教そしてミトラ教のコピーなのではないかという研究と主張があるからだ。そもそもクリスマスは、キリストの誕生日ではない。
もうここまでで、映画として、人類を創りし全能の神の存在を否定し、異端であるゾロアスター教が登場していて、大きな発展を遂げたキリスト教的な歴史史観に、真っ向から向き合っているのである。ここの感覚は、日本人にはわからない。
そして、「月を見るモノ」のヒトが、武器を作るに及んで「世界の将来は彼らの決心の如何にかかっている」「道具そのものが、道具を作ったものを作り変える」と原作では述べている。動物が、感情と知能を持って、責任を持ったということである。
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さて、SF映画である。
宇宙を移動するシーンや月面着陸するシーン(このページの最初の画像)。特に月面着陸のシーンは、月の表面の砂を巻き上げている。しかしながら、アポロ11号の月面着陸船は、砂を巻き上げた形跡がないことから、そもそもアポロ計画は捏造されたという主張が展開される材料となる。
映像美が素晴らしい。
宇宙船が移動するシーンは、コマ単位で撮影しているそうである。とてつもない時間をかけて撮影されている。
そして、その月面探査のシーンで、科学者が450万年前の月に残されたモノリスに触れるのである。
2018年の今でこそ、宇宙はこんな感じとイメージできるが、50年前の創作である。
そして、スーバーエイリアンの叡智に科学者が触れるというシーンになる。叡智の源に、叡智の作品である科学者が触れるというシーンである。だから、映画としてのSFのシーンは、映像美であるが、後ろに流れているテーマは別にあるということだ。
同僚の科学者が、人工知能により絶命させられるシーンや宇宙でのシーンなどは、まさに道具が道具を作りしモノを制御するという矛盾を提起している。
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さて、船長が、モノリスが発する電波が木星に向けて発せられていることから、木星探査に向かう。
さあ、ここからが、この映画を難解にしているシーンが続く。
つまり、木星軌道に無数のモノリスが浮遊している。そして、星の門スターゲートという入口から木星軌道に入ると、原始宇宙の始まり、不可思議な天体現象、惑星の表面の飛行、宇宙種族の残した遺跡との遭遇などが、50年前のグラフィック技術で描かれていく。
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そして、突然、映画では、高級なホテルのような部屋の一室(右画像)に到着することになっている。
何が何だかわからない。いや、原作を読まないと全くわからない。
原作を読むと、このホテルのような存在は、船長を安心させるための叡智が作った見世物なのだ。つまり、仮想現実の世界、バーチャルリアリティ現象なのである。何度も言うが、制作は50年前である。
モノリスが、過去に見たことがあるようなシーンから作り出し複製した現象であり、実は部屋の中のさまざまな彫像や絵も、科学者までをも安心させる仕掛けであると原作には書かれているのである。
私の考察では、ポイントとなるのは、仮想現実の中のこの彫像や絵がギリシャ芸術であり、キリスト教的歴史史観の宗教画のようなものが並んでいることである。この点をついた評論は見かけない。
ここに、ゾロアスター教とキリスト教の対比が描かれていると思う。なぜならゾロアスター教はミトラ教として、後にギリシャに伝播するからである。それはギリシャ神話にも描かれていく。
モノリスが、地球をモニターして具現化した「実体のない、内容のないモノを具現化してみせる」。強烈な風刺のような伏線である。
その後、船長はその場で生活し、老人となっていく。その際、モノリスを指で指す。
このシーンも大切だと思う。ダヴインチの宗教画もそうであるが、隠しテーマで、指をさして何かを訴える手法があるからだ。
そして、だんだんと赤ん坊、そして生命の源スターチャイルドの存在になっていく。
そして、またあの曲が流れる。
「ツァラトゥストラはかく語りき」である。
原作では、宇宙意識となった、スターチャイルドが地球の軌道はるか上から、「地球を見る存在」となっている。つまり、冒頭の「月を見るモノ」と対比させているのである。
原作では、「まどろんでいた積荷が目を覚まし、軌道上で、もそもそと身じろぎしている。そんな弱々しいエネルギーなど少しも怖くないが、綺麗な空の方が好きだった。意志を送り出すと、空を行くメガトン爆弾に音もなく閃光の花が咲いた。眠っている半球に、短い偽りの朝が訪れた。」と続く。
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さて、続編の「2010年」に簡単に触れよう。ダメ押しである。ついに地球では戦争が起こり、宇宙規模での破滅へと進んでいく様相となる。さまざまな人工知能とのやりとりと逸話のあとで、木星に変化が訪れる。それは、無数のモノリスによって質量が増大し、なんと恒星として輝き始めるのである。その恒星の名前は「ルシファー」という。この恒星の宇宙規模での奇蹟により、地球は平和になる。
「夜のなくなった地球に平穏のときが訪れる。」
つまり、2001年のラストの短い偽りの朝に対し、夜のない平穏なときというワードで対比されていく。
何がダメ押しか?
そう、この地球に平和をもたらす奇跡の出現である恒星の名前を「ルシファー」としていることがポイントなのである。「ルシファー」は、キリスト教では、光をもたらすもの・悪魔・堕天使の呼称なのである。
そういう存在が、キリスト教史観の世界である地球を救う契機となるという奥の深い構成なのである。
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『 常識にとらわれる、囚われる? のはやめよう。
叡智は、宇宙意識であって、現実の歴史史観とは異なるものだ。プロメテウスの叡智の目が、今も地球を見渡してくれていると。 』
そんなテーマが一貫して流れている作品であると思えてきた。
ここまで読んでいただくと、この画像の意味がわかるのではないだろうか。
2001年のラストシーンであり、始まりなのだ。
私自身は、どちらかといえば日本の神道であり、キリスト教的な宗教観がない。ただ、常識がいつでも正しいのだという無意識のままで受け入れる、その顕在意識とその視点では、この映画は解釈も体感もできないのだろうと思う。
以上述べたことは、あくまでも映画鑑賞の感想文である。なにかを非難し批判したわけではないことを付け加えておく。
そして、モノリスは永遠に知的生命体との接触を待っていると信じてみたい。