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2015年大神神社 宇治平等院

2012年8月 様々なことが駆け巡り方向転向が求められていた。休日出勤の帰り、山手線の車内で興福寺のTシャツを着たミュージシャン風の若者が原宿で降りた。

その若者が使者となって、私が2週間後、興福寺を訪問し阿修羅像と対面できたことは、以前の記事で述べている。その後、確実に方向転向がなされ、大きな人生の運気が動き始め、本来の人の倫にそった行動に、この3年間で戻りつつある。

 

この間、未知との繋がりを求め、神社紀行なる一つの言葉も得て、近隣のお社に足を運んでいる。そして、次第に、2014年の春から奈良の桜井にある三輪山をご神体とする大神神社に参詣したいという思いがだんだん強くなっていった。2015年の早春、JR のCMで取り上げられていたのでご覧になった方も多いと思うが、日本最古のお社といわれている。三輪山をご神体として本殿がないお社で、現在の再建された拝殿でも350年経っている。お山自体が、本殿と考えればとても規模が大きい神社である。

 

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3年ぶりに興福寺国宝館をじっくりと拝観した。<命が与えられる>という改心の象徴にも見て取れる阿修羅像に、改めてお礼を述べた。また、5メートル以上もある千手観音菩薩の荘厳さに改めて感動した。それは、ゆったりとした時間であった。

悠久の時間の中で、開眼時の人々と同じ気持ちで像を眺めている瞬間。

人が感じる幸せとは何か、美とは何か、・・・実は時間が流れ時代が変わっても、普遍の倫があるように思えてくる。そういうお礼の時間であった。

また今回の宿泊先は、三条通りに沿ったワシントンプラザホテル。選んだ理由は、ホテルの目の前に小さな六畳ほどのお社があるのだが、実は一つの法人格を持っている神社である。そのお社は、月日神社という。実はさまざまなことで、月日大神にはご縁がある。3年前に奈良公園からJR奈良まで歩いて、もう勝手知ったるという感じであったのだか、今回地図を見ていて驚いたのだ。こういうお導きでこのホテルを予約した。

 

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天気予報は、雨で気温も低めの予想も、お導きの旅であるときは不思議なことが起きる。それは、ご神体が三輪山であるという自然のエネルギーが、時として起こす不思議でもある。

 

もう、二の鳥居を入っての参道から聖域の空気が違う。迎え入れてくれる暖かさとピリッとした緊張感が感じられた。そして、しばらくして、拝殿の前の境内に至る階段を登りきると、雲の切れ目から太陽がまばゆいくらいに降り注いでくれた。

神域との境にある三ツ鳥居も拝観できた。高千穂の天の岩戸神社もご神体は「自然」であった。可能な限りすべての摂社末社を参詣したが、唯一三輪山への登山が許されている狭井神社から参道を見ると、さらにその神域の奥深さが感じられた。狭井神社の境内でも、太陽の光がまるで幾重ものスポットライトのように照らしてくれた。ご神水をいただいて戻ってきた。

 

当然、私はお願いごとはしない。ただ、参詣できたことへの感謝を述べてきた。

 

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帰りの奈良線で、前回は改修中で訪れなかった宇治の平等院にも参詣してきた。ミュージアムもあり、また裏手から鳳凰のきらびやかさに触れてきた。

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ところで、この記事 をお読みの方がご存じの通り、私が旅に出ると何か「まりこ」さんに出逢うのであるが、上の文章にでてきませんねぇ・・・という方。

 

はい。大神神社の摂社で、狭井神社に至る参道わきの階段を20メートルほど登ると活日神社がある。このお社のご祭神は、なんと高橋活日命であった。

ご神体にお供えするお酒を造った杜氏が、その出来栄えを讃えられ、崇仁天皇に歌や舞踊で饗され杜氏の祖先神として称えられているという。まるで、高橋真梨子さんがお酒のCMで歌っているかのような感覚を想い起こさせる出逢いであった。

 

そして、宇治駅から平等院通りに向かう交差点の角に、京七宝で絵画を描いたアンティークなお洒落なShopがあった。しかし、そのことは忘れたまま帰りに、そういえば寄ってみようと訪れた。それは、絵画のように繊細で品のある七宝焼きで描かれた絵が並んでいた。そして、当然購入したのは、「太陽と月」など星を描いた小さな絵であった。(左下写真) いいお土産ができたなぁと、宇治駅に戻り、コインロッカーの番号を見て、ははーんと、しかし小さく納得して驚いた。ナンバーは1026番であった。預けるときは、番号など意識せず足早に向かったので、空いているところにとりあえず入れたのであった。

ここで、改めて自分の運気を守っていただいている「守護数」である、「2」と「6」が旅の終わりに登場し、今回の旅の意味を教えてくれたのである。

 

大きな人生の運気の動き、自分でなんとかしようと思っても自然に時が導いてくれるのを待つ。

私は、「真梨子さんの自然体」を、真梨子さん自身の感性に身を委ねるという意味で、鋭敏な感性の赴くままに表現される自然体と今まで評してきた。

しかし今日は、もしかしたらその感覚と同時に、真梨子さんの自然体にも、「悠久の時の動きに逆らわない自然体で向き合う感覚」もあるのかと感じたのである。

 

そんなことを思わせてくれる、ふたたびの奈良の旅であった。

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