鹿島神宮と龍神
鹿島神宮「には」、龍神を祭祀するお社が八社あった。
この事実は、私にとって大きなセンセーショナルなことであった。
よく読んで欲しい。
鹿島神宮「には」であって、「では」ではない。
鹿島神宮の御祭神は武甕槌大神である。
これを読んで? 何が? という方もおられるかもしれないが、ここポイントである。
2015年8月11日に、初めて鹿島神宮を参拝したときの不思議な体験は、後述の神社紀行の中で書いてある。
奥宮で出会った黒アゲハが、住宅地の中の稲生社に導いてくれたこと、そして帰路に起きた嬉しい「神社の波動からの返信」。実は、鹿島神宮駅に降り立った私は、参道につながる坂道を登り、最初の大きな交差点を左折した。
この大鳥居前の参道に、左折してすぐのところに、新しい鳥居であるが、古い感じのお社があったのである。
当然参拝した。鹿島神宮よりも前にである。
そして、2019年2月このHPを作成し始めて、いろいろと書き記している中で、どうしてもそのお社が気になっていた。そしてついにそのお社が、龍神社であることにたどり着いたのである。(正確には、雨に龍)
2015年当時は、出雲大社系の波動の私は、大国主命と武甕槌大神との関係が気になっていたので、まだまだ龍神にまで気が回っていなかったのでなんとなく名前は覚えていた。
出雲と鹿島の関係は、すごく卑近な例で申し訳ないが、地元の企業が大きな勢力にM&Aされるという話になり、その勢力の特使がやってきて話がまとまったという「国譲り」である。中央集権化のプロセスである。その特使が武甕槌大神である。
つまり、波動から考えると、私にとっては向こう側の存在なのである。しかし、その鹿島神宮と極めて同調し共鳴したという出来事なのである。
龍神社の由緒書きを掲載する。あわせて、先人の研究者の方のBlogをリンクしておく。当時の珍しい画像の絵葉書も掲載されている。
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さて、お気づきの通り、今の社殿に遷宮された日付がポイントである。明治26年12月6日。
私のPROFILEにも述べているように、私の守護数の2と6である。まるで、なにも知らずに引き寄せられるかのように、まずはじめに地元の神である龍神に参拝するように、プログラムされていたということなのだと解釈している。偶然という名の必然である。
本社の正式名は靇神社(雨かんむりに龍)である。茨城県鹿嶋市宮中1の3の4に鎮座する神社。場所は鹿島神宮大鳥居(二之鳥居)手前約200m左側。例祭日は十一月一日。
【案内の立札】
この社は、靇神社です。おまつりしているのは高靇神、闇靇神という龍神です。鹿島神宮の水を守り 火を防ぐ神です。御手洗池に二社、楼門の前後に 四社、参道の両側に二社の八龍神と伝えられていますが参道の二社が合祀されてこの靇神社一社となり、明治以降は当町(大町区)の鎮守の社となっています。
御神徳
昔の消防ポンプを龍吐水(りゅうどすい)というように、龍神は火伏(ひぶせ)の神とあがめられ、谷間を守る神でもあり、家内安全、商売繁盛、また 子育て、子供の守り神と伝えられいます。 (以上)
祭典後の直会の席上には「八龍神」の掛け軸が掲げられる。鹿島神宮に奉仕された鹿島則瓊宮司の揮毫(ノリヨシ 天明6年~明治7年 1786~1874。19歳のとき父が死去したため大宮司職就任。以後六十年の長きわたり同職にあった。国学を塙保己一に学んだ。)
掛け軸の箱書きに寄進者の氏名がある。
奉寄進 文化九壬申年霜月十五(1812)
檜物屋甚平衛
当社の創建は不詳なるも平安時代とも言われている。
現在の社殿は
明治二十六年十二月六日正遷宮の記録がある。
鹿島神宮の武甕槌大神は、北方方面の警護の役目を担当していたこともあり、もともといた縄文の神々と融和同調して、協力関係の中で日立の国を興隆させたと考察したい。
だから、鹿島神宮「には」なのである。