top of page
Stanley Kubrick 監督作品

「2001年宇宙の旅」について

このHPでは、宇宙との繋がりもテーマとしている。それだけにこの難解な映画作品を体感しないわけにはいかない。以下に述べることは、映画鑑賞の感想であって、特定の事象や宗教・団体を非難しているわけではない。あくまでも、感想文ととらえて欲しい。

さて、この映画を見て素直にわかったという方はほとんどいないであろう。SF作品と決めつけてしまうのもまずいのかもしれないが、ラストで叙情的なシーンに変わり、木星探査の船長が、なぜ老人から赤ん坊になって、ラストを迎えるのか。そういうお伽話のSFとしての評価、また映画音楽の素晴らしさを体感する映画としての評価、そして1968年の作品で50年前、アポロ計画の真最中なのに、まだ人類が知りえないその宇宙を描いた想像力の素晴らしさを賞賛したりという評価はあるものの、実は本筋での感想が書きづらい作品なのである。

ということで、You Tubeで3万人ものチャンネル登録があり、さまざまなインパクトを与えていただいている静岡在住のはやし浩司先生の『別バージョンの人類史』を、実際自分で確かめてみて、そして得た考え方をひとつの考察の材料にさせていただいて、また、アーサー・C・クラーク氏の原作本のポイントを押さえながら感想の骨子をまとめてみたい。その前に、考え方の視座を整理したい。

***************************

① まず映画鑑賞の前に、西洋哲学的な歴史史観について触れておきたい。

まず、文明の進歩を捉えるとき、時間軸の進行に従って複雑化し拡大していく文明の拡大発展をひとつの直線型思考と捉える立場がある。ある意味、これは、神の恩寵の元、神に近づくための発展の足跡となる。

 これに対して、進歩とは何か、発展とは何かという視点で常に人間の存在を中心に置いて考える立場である。当然、時間軸での進歩と発展はあるのだが、外へ拡がる方向に対して、常に善きものとは何か、発展とは何かを問い続けて、中心に向けて秩序とバランスを保ちながら内省的な考察を行う問いかけである。これを円環思考という。この円環思考では、衰退はありえない。ただ、バランスのみが大切である。

② そもそも学校で学んで来た西洋史とはなんなのか。当然時の権力者が、自己正当化して後世に偉業を伝えたものとすれば権力側に有利になる。もしかしたら、日本の明治維新も同様である。そして学校では、習ったことをそのままにノートを作って、それを暗記して、ペーパーテストに答えを書き写すとすれば好成績が取れる。なんの意識もせず、その歴史観が正当で自然であるということが優等生と言う事になる。日本の学校教育は、国づくりのための生産モデルとしてこのパターンで国力に寄与してきた。しかし、一旦立ちどまって、いわゆる常識や誰かが作った教科書的な知識というものを、捉え直してみようという立場は、私も大切だと思う。

③ 次に遺伝子工学についてである。世間で遺伝子工学が強く意識されたのは、試験管ベイビーのルイーズさんであり、映画公開の10年後の1978年のことであった。そこで問われたのは、遺伝子操作ということは神の領域に触れる倫理観の大切さということであった。映画製作はその10年前である。

④そして、地球外生命体や未確認飛行物体については、日本では明らかに始めから、馬鹿げた話である、科学での領域ではないと学者が潰してきた。証明できるものでないと研究テーマにならないから、大学にいられなくなるのが日本である。特に生産モデルの学校体系では、はみ出さないことが美徳なのである。しかし、確認できないから、「未確認」飛行物体であって、それは捉え方としてあっても良いことだ。もちろん、それがエイリアンの乗り物かどうかは、接近遭遇した方を信じるしかなく、いわゆる大学での科学の研究題材には成り得ないだけである。知る人は知っている別次元の話しである。よって、この映画はあくまでもおとぎ話であるされてしまう土壌がすでにあることになる。

さて、上の4つの事を整理した上で映画を見て原作に触れると極めてこの映画は壮大な視点があることに気付かされる。ズバリと書いてみる。

人類は450万年前に地球にきたスーパーエイリアン(神)が、類人猿に遺伝子工学で品種改良を施して生まれたものである。その神が与えし叡智は、実は進化の過程で命を奪う武器までをも生む。何万年もの時が過ぎて、神に近づくための宇宙開発にいたり、人工知能を開発すると、主役を奪われ、人工知能に制御される時となる。そして造り主であり本来の感情ある人間とその叡智の進化形は敵対関係となる。結局このような科学技術の進歩があっても、これは神に近づいたということにはならない。次元と空間を超えたところに、生命の根源はあり、これが宇宙であり神の意思である。その神と呼ばれる宇宙意識は到底人類の及ぶレベルではない。叡智に触れたヒトが未来を作ってきたように、現代人は武器を捨てるという決意をとることもまた未来を作る起源となるであろう。

という感じにまとめてみた。映画を見た方ならハハーンとうなづいてくれると思う。反戦的な色合いも感じ取れる。しかし、私は、そのテーマの裏に、もうひとつの歴史史観のパラダイムシフトを提言しているように思えてならない。

まず、冒頭で登場する類人猿たちは、スーパーエイリアンからの叡智であるモノリスに触れる。そのリーダー格の猿のヒトは、原作では「月を見るもの」と名付けられている。原作では、モノリスによって学習していく様子がかなり長めに書かれているが、映画はいきなり骨を武器にして、生き延びていくことになっている。そして、その骨を天空に放り投げると、あの有名な宇宙ステーションのシーンになるのだ。ただ、ここで忘れてはいけないことがある。

それは、モノリス越しに太陽が上がってくるシーンである。

これは、「プロメテウスの目」を象徴していると私は考察する。「プロメテウスの目」と言うと、最近の都市伝説のバラエティ番組で、フリーメイソンとかイルミナテイという存在で、何か危険なイメージが出ているが、神話の世界では火の叡智を与えたことで、立場を悪くする神の話である。

この「プロメテウスの目」を想像させるシーンは何度も登場する。

bottom of page