2005年 出雲大社
(いずもおおやしろ)
この旅はとても不思議な旅であった。詳細は、スピリチュアルな部分があるので
説明しづらいが、昨晩あたりからお知らせするように導かれているので、可能な限り表現してみる。
決して、私にはそういう能力があるとは思っていない。というより、人には皆そういう能力があって、気づいているかどうかの違いだけだと思っている。しかし、たまたま私の母が日本の神に信心深く、もとより曾祖母の代以前より三重県の伊勢の出身であり、その完全に母系の直系長女が私の上姉であり、そして姪である。私は知らなかったのだが、姪は幼少時より不可思議な経験があり、実は姪がこんな言葉を知っていると思っていなかった。それは、依代であり、結界という言葉である。
2005年の夏、ある機会があり、出雲に行くことになる。姪によれば、私の今後に意味のある旅だということであった。
今まで、ずいぶんと節目のときに、私はいろいろな形で周りのエネルギー体に守っていただいている。詳細は書ききれないが、ある数字で私はそのこと悟り、教えていただいていると思っている。それは、救っていただいた方の誕生日であったり、住所であったり、そのときの日付であったりさまざまである。判断に困っても、それでよいのだよと、その数字に出会って教えてもらっている。(決して創り話ではない) あるときは実に不可思議だ。そのご守護の数字は2と6である。突然だか、具体的で簡単な例を出すと香港公演のとき、センチュリーホンコンホテルがツアー客のホテルであったが私の部屋は620号室であった。実は、こういうときとってもほっとするのである。
そしてこの出雲に旅する直前の仕事上でのつながりのある方のお名前が、なんと真梨子さんだったのである。出発前、姪は「一期一会を大事に」「お茶を出してくれる方」「出雲大社の右側」など謎の言葉を姪は投げかけた。
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大社周囲および懐古館、境内を参拝し散策していざ帰ろうとしたら、拝殿からお神楽が聞こえてきた。後年体感していくように、参拝時に祝詞が聞こえてきたり、神主さんがお祓いをしているタイミングに参拝したりというのも、ここから始まるのだと思う。
また大社の右側に行くために、北島国造館側に出るのではなく、わざわざ大鳥居まで戻り、当時工事中であった博物館わきの道を抜けて真名井の井戸や、命主社を参拝するのにぐるっと大回りしたのも、今思えば懐かしい。知らないとはいえ、参道の長さを2往復していることになる。
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出雲大社の御祭神である大国主大神は、一般には大黒様として打ち出の小槌を持ち、米俵に乗られている様子が描かれている。その日、御神札をいただいた私は宍道湖沿岸のローカル線で松江に向かい、玉造温泉に宿泊した。そのときの、勾玉館で入手したものが写真の勾玉である。
出雲の勾玉は、先が丸いのが特徴である。
この博物展示館の勾玉は、本木雅弘さんが演じた、NHKの聖徳太子の歴史番組にも歴史考証として参画し、大きな勾玉を貸し出している。また、出雲大社の神主の最高位職である出雲国造の就任時には、宮廷に必ず献上されてきたものである。
この旅では、時刻表上では待っているはずのない列車が、われわれの到着を待っていてくれたり、偶然乗ったタクシーの運転手が昨日同じホテルに泊まっていたり、帰りには益田から、萩石見空港に行くときのタクシーの運転手さんのお名前が、「俵」さんであったり(神札を持っている私が、米俵に乗せてもらっているということ)、もういろいろと書ききれないくらいありがたい思い出に溢れる旅であった。そして、飛行機の搭乗口の横に貼ってあった大きなポスターの文字が「一期一会」であったのには驚いた。
もうひとつ、私が行きたかった、萩の松下村塾でも不思議が起きた。吉田松陰先生については、1977年のNHK大河ドラマの篠田三郎さんのイメージが強く残っていた。
実は、信じられないだろうが、この音楽館の教授のキャラクター人形がなぜ、昭和47年に私のところに贈られてきたかも理由がある。かなりスピリチュアルな話なので省略するが、私は、彼の写真を取って、そのカメラの確認ファインダーに映像を出し、一緒にご祭神に向け参拝して礼を尽くした。そして、その茶室の設計者を見て驚くことになる。川上不白という茶人。これは、うちの奥さんが師範代の免許を持っている茶道不白流の祖なのであった。
この旅は、偶然での出来事の連続ではない。大きくいえば、これからの方向を見つめる旅となった。
もう一度勾玉を見てほしい。色と素材は自分で選べたので、ローズクォーツにした。
勾玉の形は、月であり、小さい穴から太陽の光がさしてくるという謂れがある。
そして、人間の胎児の形をしているのである。
月と太陽 生命。 音楽館の表紙を意識していたのではなく、作るときに自然にそのイメージが浮かんできたといってよい。それくらい潜在意識にしみこんでいる。
そして、もうひとつの不思議。
教授キャラの人形が音楽館に来たのは昭和47年秋である。
ちょうど、髙橋まり子さんが、博多から旅立った時期となぜか一致しているのである。