世界的な意識転換期と神社との繋がりついて
2022年1月2日に改めて編集してみた。下記では、当時想定されたことをキーワードのようにまとめている。
それからの20ヶ月間で起きたことを考察してみると、さまざまな事故やトラブル、一見自然災害に見えることが、過去の隠蔽や背景にあるいい加減さの不始末の結果として露呈してきている。
そして、昔はよかったという思いへの回帰を希求する人と、新しい生活様式を模索して新たな展開を始めた人とに分かれているような気がしている。
どちらを歩むのも、自分次第の判断である。
私としては、神世界からの教えのような人としての在り方の模索・人間性回帰への動きとして、神社仏閣との繋がりを保ちたい思いである。
この記事は、2020/04/06に掲載している。本日まさに、政府よりコロナウィルス対策の緊急事態宣言に向けての動きが漸く本格化し発令されようとするタイミングである。
読者の皆様の健康と安全をまず祈念します。
コロナウィルス19はいつかは、収束する。そして終息して来年は東京オリンピックが行われるであろうことを期待したい。もしかしたら自分も病魔に倒れるかもしれない。
だから、まだ早くても終息後の世界の有様(ありよう)を予想しておきたい。それは、
地球規模での大きな意識転換、パラダイムシフトの到来である。
今回のウィルスは、生命体としての地球環境の大きな警告である。
そして、それに対する各国の対応に、本物とは何かが問われている。
ひとえに、時間軸の進行に合わせて直線的に発展することをを良しとする日本のような国においては、大転換を迫られる。目の前に展開されているリーダーシップと危機的管理の未熟さ、そして国民目線の欠如は大きな国民意識の転換の必要性を暗示する。
今まで真面目な日本人は、教科書に書かれてあることが正しいと思い、それをまじめにノートにまとめて定期試験を受けて、良い点数を取った人が出世するという世界になれて来た。ひとつの尺度であるとわかっていても、すべてが試験結果の得点で人生が決まる、そういう世界観に不思議と順応してきた。
しかし、国家的なこの被害に対して、思考力、判断力、決断力など、教科書に書かれていない人間力で臨まねばならないことは、明白な状況として展開しているのである。
いわば、既得権を争う競争社会から、地球環境と人間相互の共生社会への明確な転換の必要性である。
私は、これを、このHPの各所で、人間モデルの円環型思考と述べてきた。
外への発展と同時に、秩序とは何か、人の生き方とは何か、善とは何か、そして愛とは何か。すべて人間の人間性の中に埋め込まれている共通の人間性の根源的な視点、そこへの回帰と省察を必要とするモデルである。同時にそれらを円滑にしていく、循環型の動力因 も必要である。
企業も大学も学校も、生活も今までのような同じライン上で優劣を競う評価にはもどらない。
リモートワーク、遠隔授業、映像配信。医療、健康志向。余暇。家庭志向。環境やコミュニティとの共生、共鳴ハーモニー。そして、学歴ではなく学習歴への転換。実力主義、個性化、専門化への転換。
複数路線での評価尺度があることに気付くくことへの転換。
これらは、実は、今までかなり語りつくされてきたけれど、ずっと直線思考の尺度が優先されてきたのも事実である。当然書類だけ見て、決済印だけを押すような無能なオジサン上司はいらなくなる。
本当のリーダーシップによるチーム優先の成果主義も増えるであろう。
大人数の講義は、一斉映像配信へとすでに変更している。
本当の学習、考察レポートの提出、Zoomやスカイプなど併用したゼミでの討論。
一言で言えば、ちゃんと学んで考えることのできる人でなければ生き残れない。
権威主義で偉そうにしても、人の命は救えない。
自分は大丈夫だといっている安易さ身勝手さが、世間にウイルスをまき散らす感染源となる。
そして自分の命すら守れない。まさに、笑い話のように、存在自体が社会の癌になる。
このことを精神世界に当てはめれば、
今のご朱印ブーム、神社ブームは必ず変容する。
つまり、ご都合主義で自分に都合の良いことだけお願いする、神社を利用するような行為や、スタンプラリー的な御朱印集めは、目の前の危機的な世界の中では何も役立たない。
もともと謙虚な方でも、すぐにご利益はいただけない。だから安易な参拝では、神的な力での後押しもいただけないだろう。別掲で述べるように、不足の心を持った参拝はもその人にとってのプラス事象を何も具現しない。そしてそのうち、そのご都合利用主義的な人は、神社から離れていくだろう。
残るのは、感謝の心、謙虚さ、人としての努力、共生と利他の心。
真善美の神の理、宇宙の理、法則。誰であっても、それはもっともだという感覚への共感。
神様とは何か、人が生きていくとはどういうことか、決して拝金主義ではない真の本物と思える世界への観点を持つことの必要性。まさに神社は、そういう前向きな人のためのパワースポットになる。
そしてどの世界でも、本物だけが生き残る。
自分の考察が正しいとかそういうことを言っているのではない。
いろな考え方があってよい社会に変容していくということである。
そして、それらの情報に触れる自分自身のフィルターのセンサーを研ぎ澄まして、判断していくということである。ある意味、自分のセンサー次第で、如何様にも方向性が広がっていく。
より国民目線、人間モデル目線、理の視点などで判断する人は、そういう人たちと同調するに違いない。
拝金主義、ご都合主義のフィルターしか持たない人は、そういう人たちと「類は友を呼ぶ」であろう。
どちらが良いか判断するのは、その時の環境の中での自分自身がすべてである。
日本には古来から、和を尊ぶ良き習慣がある。
本物の和の共生社会への転換、その意識の変革の必要性を強くとらえれば、当面続くであろう自粛が旧来の生活ができないことへの我慢ではなく、積極的な回避策と命を守る防衛策、そしてその後の世界へのパラダイムシフトの準備であるのだということに気付くと思う。そういうことを体感して生きていきたい。
(2020/04/06記載)
MDF宇宙館 館長MDF