北野天満宮
10/5出雲大神宮参拝の後、嵯峨野線の途中駅円町で下車して、北野白梅町を経由して、1.4キロの道を歩いた。御所から北西部の天狗山に近いエリアであり、もう少し行けば金閣寺である。
平安京は、東西南北の地理的景観が四神相応として優れたエリアである。東に流水(青竜)、西に大道(白虎)、南に窪地(朱雀)、北に丘陵(玄武)が備わる土地・地勢である。
北野天満宮HPを参照すれば、四神相応に加えて、北東・東南・南西・北西の位置関係は、都の守護を司るとされ、特に「乾」の位置の北西は、大変重要な場所とされ、天地すべての神々「天神地祇」を祭祀した地主社が建立されていた。そして帝が御所大極殿から祈祷されるとき、北西の位置には北極星が輝いていた。この太陽と月と星の運行の位置関係はすなわち、天皇・国家・国民の平和と安寧にかかわる関係であるという「三辰信仰」を興隆させ、御所の北西エリアの北野は天のエネルギーが満ちる場所であるとされ「天神信仰」として全国に発展していく。
東京の江戸城・皇居においても、本丸や宮中三殿から東には金龍山浅草寺かあり、北西方向には日光がある。そして陽明門・東照宮の真上に北極星が輝いている。
京都に参拝に訪れているものの、なかなかご縁がなかったということであろう、初めての参拝である。その広大なエリアの参道の先には、左記の通り地主神社がある。
その参道の途中、楼門を入り左手のもう一つの参道を通ると「星欠けの三光門」がある。本来輝いている北極星は、欄間彫刻にはなく、天空にあるとの説である。
そして、大きな拝殿本殿の天満宮がある。
湯島天神や、各地の天神、約12000社の総本社であり、かなり規模は大きい。平安時代中頃の天暦元年(947)に、西ノ京に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが神殿を建て、菅原道真公を祭祀して神格化したころとは趣も異なり、御神徳も農耕から芸事までかなり幅広いとされている。
その長い参道から広大な境内に至るその神域は、
やはり祈りの集合体というエアーはなく、1300年にわたり祭祀してきた儀式としての凛とした雰囲気が強い。
明らかに体感できるのは、格式と品である。
人を輝かせる縁結びという感覚ではない。
当然、修学旅行生も多いのだが、
これだけ大きいお社は、まさに知性の面から国家という大きな範疇で、国全体の安寧を祈念する神社であり、個人的な受験合格とは本来はお役目のレベルが異なるように思う。
よって、参拝は「お願い」ではなく、まず「感謝」すべきお社であろう。そして、「お願い」ではなく、国のため自分はどういう人材になろうと努力していくのか「宣言」する場所であると捉えたい。学問の神様にお願いして、努力もしないで合格したいなんてことは図式としてあり得ない。
もちろん、合格祈願や商売繁盛を祈念する相応のお社参拝もよい。要点は、「自分だけよくなりたい」〈自分だけ儲けたい」という邪念ではなく、周囲や社会のためにどのように寄与していくのかという、より高い志があるかないかである。
私が、比較的大きなお社を中心に参拝するのも、この感覚を体感して本来のあるべき姿に自分自身を軌道修正したいという思いからでもある。
よって、同じ学問の神様そして菅原道真公というカテゴリーでのご朱印も、あきらかにお役目が違い、エネルギーの方向が違うのだということを改めて記しておきたい。