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熊野本宮大社

熊野三山として大きなくくりでまとめられているが、私個人としては、熊野本宮大社と熊野那智大社の対に対して、熊野速玉大社がバランスを取っているという感覚でとらえている。

2011年夏の参拝なので、当時は仕事上の難問を多く抱え、同時に自己疎外に陥りながら、新たな再生の道を模索していた時期であった。まさに熊野詣でという感覚であった。

公式HPでは、伝承されてきた言い伝えも掲載されている。ただ現在は、別掲の通り、出雲と伊勢と熊野の力関係という視点でという眺めているので、神話は神話として、体感した肌感覚で述べてみたい。

「八咫烏は、日本書紀・古事記の『神武東征』という物語に登場する。これは神武天皇が、宮崎県(日向)から奈良県(橿原)に都を移し、大和朝廷を開いて初代天皇に即位するまでを神話化した物語。神武天皇が熊野に到着された時、神の使者である八咫烏が奈良まで道案内をしたというエピソードから、熊野三山に共通する[導きの神鳥]として信仰されている。」

熊野本宮大社の創建年代は不明であるが、社伝によると崇神天皇65年に熊野川の中洲、現在の大斎原(おおゆのはら)の地に創建されたとされている。『熊野権現垂迹縁起』によると、熊野坐大神は天台山から飛来したとされている。熊野坐大神(家都美御子大神)は、素戔嗚尊と公式HPでは表記されている。(しかし、太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であるという説や、中洲に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。家都美御子大神については他にも五十猛神伊邪那美神とする説があり、菊理媛神とも関係するとの説もある。)

かなり大急ぎでまとめれば、スサノオ族・出雲族が出雲~近畿・奈良から南下して勢力を拡大し、もともとの土着の神々を否定することなく融合して栄えたととらえればよいのではないか。だから、熊の毒気と称される地元の豪族勢力の抵抗にたいして、融合和合した素戔嗚尊を尊重することで、神武天皇が上陸しやすくなったと捉えればシンプルである。

もとより、熊野という地名も、島根の熊野大社周辺の土地名から来ていると私は推測している。

このようにな力関係だから、熊野本宮大社では證証殿が家都美御子大神であり、若宮が天照大神である。

新宮から、熊野川沿いをバスで入ると、川が見えてきたという旅行気分は一変する。両脇に大きな山が連なり、川幅の広い急流が流れている。山奥に入っていても川幅が広い。

現在でも、大斎原は広い土地で川のすぐ傍である。

明治22年の大洪水により、大斎原は大きな被害を受けた。当時は能舞台などもあり、今の8倍の規模を誇っていたというが、残った上四社が明治24年に現在地へ移築された。

熊野本宮大社観光協会
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熊野本宮大社公式HP
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①証誠殿(本宮・第三殿) 家津美御子大神(素戔嗚尊)
②中御前(結宮・第二殿) 速玉大神
③西御前(結宮・第一殿) 夫須美大神
④東御前(若宮・第四殿) 天照大神

改めてまとめると、熊野本宮は素戔嗚尊である。そして、熊野那智大社は大己貴命で出雲族である。また、この私のHP上の表現では、古代では龍系シリウス星との関わりがとても強いというとらえ方である。​まさに龍神がおられるということである。

正直な体感て言えば、移築のためか、感覚的には大斎原の方が雰囲気がある。

実際トンボに導かれたのは、バスを降りた大斎原である。

現在地は祭祀を行う場所として格式づけられた聖地の意味合いが強く、古代からの祈りの念の集合体としての聖地とはまた違う、新しい清々しさと凛とした雰囲気に包まれる

それは、出雲大社や氷川神社の出雲族の情の温かさとは異なる緊張感として感じられたのである。

大斎原は黄泉がえりの聖地

現在のお社は、格式ある祭祀の聖地

​そんな感覚である。

2011年以降参拝していない。

​改めて、近隣の散策も含めて体感したい。

熊野本宮大社観光協会
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熊野山宝印/2011
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